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2013年6月23日 (日)

可能性の追求

 私が2000年から活動をつづけている18歳選挙権が足踏みしている。憲法改正をめぐる議論を受けて、国民投票法を改正して18歳投票権を確定する一方、民法(18歳成年)と公職選挙法(18歳選挙権)の改正は見送るとの意見が強まっている。
 2010年の法施行までに18歳成年(成人)・選挙権を実現するとの附則を履行しなかったら、その附則自体を改正するとは理解に苦しむ。2007年の法制定を主導するとともに今日まで6年間の政権を担当した自民、公明、民主各党の責任は重い。さらに成年(成人)と選挙権の年齢同時引き下げを主張する総務省と、選挙権年齢の先行引き下げを主張する法務省の対立も収まらない。
 だからといって単に政治家(政党)や官僚の責任追及だけでよいのだろうか。民主党政権下で内閣府参与として社会的包摂・大震災ボランティア連携を担った湯浅誠さんのブログ「内閣府参与辞任報告」と、内閣審議官として広報活動を担った下村健一さんの『首相官邸で働いて初めてわかったこと』(朝日新書)を読んだ。
 湯浅さんは様々な具体的施策に触れた後、ウェーバーを引用しつつ「『あらゆる政治的・社会的な働きかけは、意識的にせよ無意識的にせよ、調整の当事者として、政治的・社会的力関係の変容、およびその力関係の反映としての政治的領域における決定への影響力行使を目指して行われる』(中略)常にすでに調整の当事者として結果責任を負っているということ、それが民主主義における主権者ということだ、と私は考えています。」と述べている。
 下村さんは2030年代原発ゼロにむけた「革新的エネルギー・環境戦略」に対して「脱原発を願う人々のほうが、失望の症状は大きいようだった。『どうせまたこれで、ズルズルと原発が増えていくんだろう』とこの戦略の持つ潜在力を見限ってしまい、戦略が呼び掛けているゼロへの道を自分たちで踏み固めていく機運は、まったく盛り上がって来なかった。」と述べている。
 ようするに制度や政策は対立する意見をもつ人々の綱引きによって決まるのだから、私たちは原則論を述べるだけでなく、現状を一歩でも変化させる可能性を追求することに執念を燃やすべきなのだ。衆議院憲法審査会の自由討議では公明党やみんなの党だけでなく自民党からも国民投票権と選挙権を一体で18歳にすべきとの意見が上がった。政治・行政両面から18歳選挙権・投票権を一体で実現する可能性を追求したい。

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